CB93復活の日・導入編

 

by つ

 

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バラバラになったまま早4年半
果たして復活の日はやってくるのか


−プロロ−グ−

 

1994年2月、雑誌の売買欄を眺めていて次の一文が目に飛び込んできた。
「CB93  左右マフラー新品 スペアエンジン付 15万円」 
 
長く売買欄と接していると不思議な直感が働く時がある。
すぐに電話をかけ、まだ有ることを確認、エンジンもかかる・欠品も無い、引き取りに行きますと約束。ふと考える。大阪住まいの私がどうやって山口県まで引き取りに行くか?当時26歳体力には自信があるがお金は無い、出来るだけ安くを考え、一番安い軽トラを借りることにした。レンタカーより○○建機サービスといった建築リースの方が安かった。 
 
休みは1日。現地11時の約束で、日帰り・自分への鍛練として有料道路は一切使わずの方針を決定。前日夕刻仕事を終え軽トラを借り、早朝の出発に向けて早い眠りにつこうとするが眠れない。遠足前日の小学生のようだ。午前2時結局眠るのを諦め出発。途中仮眠を取りつつひたすら国道2号線を西へ下る。
 
午前11時5分前どうにか約束の場所に着いた。
売主は熱烈なホンダマニアだった。ピカピカにフルレストされたCB750KOやCB72・CL72などが誇らしげに置かれている。
 
「イヤー、結構問い合わせ有りましてねえ。93も人気有るみたいですねえ。」
 
そのかたわらに彼は恥ずかしそうにたたずんでいた。メッキも塗装も年式相応にヤレている。30年の年月がそこには流れていた。売主がエンジンをかけてくれた。バッフルチューブが入ってないせいかやたら元気よくアイドリングはするものの、右の排気管からは白い煙も見える。リングか?バルブか?左右の新品マフラーが妙に存在を主張する。もらって欲しくてしきりにしっぽを振って愛想をふりまく子犬のように見えた。それが彼とのめぐり合いである。
12時半には一緒に軽トラに乗って、一路大阪へと国道2号線を走っていた。行きは良い良い帰りは怖い、午後になって交通量の増えた国道、赤信号のたびに止まってしまう国道、安堵感と朝からの疲れ、好きなものを手に入れるためとはいえ結構ツライ旅となった。そんな時も振り向いて荷台を見れば元気が出た。最後は意地になってタダの道をひたすら走った。
午後9時、往復850キロの日帰り軽トラ一般道ツーリングは無事終わった。

 


 


 
当時公団住宅の13階に住んでいた。その環境から盗難が心配され、結局彼はリビングの片隅に置かれることになった。玄関口にはレストアされたCB50の初期型も置かれていた。目覚めた時も、食事時もいつも目に入ってくる。キレイにされたCB50に比べ、彼はあまりにみすぼらしかった。

 

彼が生産された1965年はいわば二輪におけるホンダの栄光の時代であった。

GPレースにおいては他に例を見ない独創的な125cc5気筒マシンや250cc6気筒マシンなど数々のRCレーサーが世界を相手に活躍し、翌66年には50・125・250・350・500cc全クラス完全制覇という偉業を達成した。その性能はホンダの4ストロークエンジンにかけるすさまじいばかりの情熱を表わしている。
わずか50ccのワークスレーサーRC116は50kgの車体を2つのピストンと9段のギアを介し175km/hの最高スピードにまでひっぱりあげるという。最高出力発生回転数は驚くべきことに21,500回転、リミット22,500回転、現代においても驚愕の数字である。また市販車においても、スーパーカブC100を筆頭にベンリー・ドリームなど名車達が市場を席巻していった。
 
誇り高きホンダ60年代モデルは最高のコンディションで乗ってやりたい。そのための長き道のりの詳細をここにお届けする。

 

乞うご期待!