大阪マッハクラブの歴史

その2 解散編


はじめて参加したトリプルミーティングは 第三回だったと思う。 トリプルスは 伝統的に5月の連休に昼神温泉で開催されている。 参加条件は ズバリ自走参加することである。 マッハは飾りでなく 走ってこそ価値があるという理念からきている。 至極当然のことと思う。単車は毎日でも乗るべきだと 今でも思う。



むかしのトリプルスの写真。 KHでもこれだけ並ぶと圧巻であった。
本当にむかしの単車は キャンディーカラーが似合うし コストが掛かっていた。
しかし今時の単車と比べると デカールの上のクリアーが弱いとか 
すぐに褪色してしまうとか 問題も多い。 
250や400は パワーがないので あまり面白くないという人も多いが
トリプル入門には最高だと思う。


大阪マッハクラブのメンバーは大津PAに朝8時に集合し 午前中に渋滞をやり過ごしてしまおうと考えていた。
しかし 8時ぎりぎりにPAに入ったが 隅っこの方に数台のH2やKHが停まっているだけで 半数も集まっていなかった。 メンバーはやはり単車の傍らでダラダラとマッハ談義をしていた。
8時集合出発の筈が 何時まで経っても出発しないので 誰かに出発しない理由を尋ねた。
すると 数人が来ていないので 心配なので待っているのだという。 結局、寝坊した数人を待って 9時半を過ぎて出発することになった。



この頃でも KAは何台も集まっていた(色の禿げたKAは赤影)。
H2よりもKAが増えてきた頃だと思う。
トリプルスも 初めの頃はH2が多かったが 最近ではKAも人気が出てきた。
やはりKHから入って 500や750にステップアップする人が多い。
トリプルスの面白いところは 改造部門にスゴイのがみられることだ。
とにかく 有り難味も何もなくなるほど3気筒が並ぶのがトリプルスのすばらしいところだ! 今年も楽しみ!


初めて参加したトリプルスは 驚きの連続であった。この頃はまだディテーリングなんてエンスーな言葉は広まっていなかったが どうしたらこれだけキレイになるのだろうと感じるKAやH2が それこそハエのように集まっていた。
(この頃はまだH2の方がKAよりも優勢だった気がする。) 感激で瞬きをするのも惜しいぐらいであった。

しかし一方では
「このKAはアメリカ帰りで 東京のどこどこという店にあったのが 業販で地方に流れたものに違いない。」
とか
「これはサイドカバーを再塗装してあるし ミラーがZのものに換えてあるので オリジナルとしての評価が低い。」
といった声も聞かれて カルチャーショックを受けた記憶がある。
全く余計なお世話である。

トリプルスは 雨の多い時期にある。
最初に参加した年に 大雨の中でオイルポンプの調整を教えてもらったことがあった。
左一気筒のケムリの出が少ないことを指摘してくれた上で オイルポンプのバンジョーボルトが緩んでエアー噛みしていることを教えてくれたのだ。
オイルポンプのボディはアルミで出来ているので 強く締め付けるとネジ舐めをおこしてしまい取り返しが付かなくなることを初めて習った(すでに舐めていたが…)。


あれが誰だったのか思い出せないのが残念だが トリプルスへ行って得た最も大きな収穫だった。
何に注意して維持していけばよいのか 一つ一つ教えて下さった諸先輩方には感謝しつつ 逆に いつかは そのような情報を提供する側にまわろうと考えてきた。
この頃から 耳学問を文章化して 誰でも手軽に引き出せるようにしていきたいと構想を練って ノートに書いてきたのが ピンポイント整備入門となっている。




その頃から オイルポンプの調整について やかましいおっさんになっている。
記事を見て 実践した方が「ウチのも調整が悪かったのですが 誰が悪い調整をしたのでしょう?」などとゆうて来られる。
しょっちゅうチェックを入れていても いつのまにか調整が悪くなり
焼き付きを来したりするのがマッハなのだ。
ど素人でも ここまで出来るという 見本を示しているつもりであるが
ハウツーもんにありがちな バーチャル整備(記事を見て やった気になる)
になっていないか 心配である。
記事を見てやってみた人の意見をもっと聞かせて欲しいものだ。




単車好きは個性的な面々が多いと言われるが マッハ系の愛好者は抜きんでて個性的で むしろエキセントリックですらある。 大阪マッハクラブのメンバーに迎えられ 数年した頃から 膨れあがったメンバーの間で少しずつ派閥というか コロニーが形成されてきた。
マッハVは500でなければ とか 500みたいな遅いもん乗っていられないとかが個人的好みで済んでいた頃は問題なかったが 表だって聞かれるようになると輪が乱れはじめるものだ。
ツーリング先で帰られなくなった奴がいるが その責任は誰が取るのか とか 部品の売買に絡む個人的なトラブルが出始めると もはやクラブとして運営していくのが難しくなった。

会長の交代劇が続いて 誰が会長か分からなくなった頃 大阪マッハクラブ解散という噂が流れてきた。 自分には良くしてくれた人も多かったし 仲良くやってきたつもりであったが あまりにも大人げのないトラブルが耳に入っていたので 解散すると聞いた時にむしろせいせいしたものだ。
後から聞いた話しでは 東京マッハクラブも 同じ頃に解散している。 多くは知らないが 事情もよく似たものらしい。
根本的に人間性の問題はあったと思われるが この頃がもっとも部品の需要と供給のバランスが悪かったと思われるので これも一因となったのだろう。 メーカー側の欠品が極端に多くなったのはこの頃だったが 今と違い海外から部品が入って来ることはなかった。

KAのCDIは 真夏にはどうしてもパンクしやすいように思う。
結局Bユニットが2回 Aユニットが1回(だったと思う)パンクしたことがあった。
幸いにして ロングツーリング中にはパンクしなかったが 最高10キロは真夏の歩道を押して帰ったことがある。
その頃 Aは新品がメーカーから出た(7万円ぐらい?)が Bはすでに欠品だった。誰か使えるものを譲ってくれないかと雑誌の売買欄に投稿したが 関東の方から中古のBユニットを15万円で譲ってくれると連絡が来た。
丁重にお断りして 個人で製作されたユニットを使用し 現在に至っている。
以後パンクすることが無いので それで良かったと思う。


 

お金を積んでも手に入らないものも多かった(無いものは どうあがいても無かった)。
部品に対する異常な執着は この最も苦しかった頃に培われたものかもしれない。
本当にバカバカしい 大人げのない話しであるが その頃 部品の取引のトラブルで壊れてしまった人間関係がどれほどあったかわからない。


ここまできたら再生編も読む






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